● 1934年 キュナードライン見開き雑誌広告レプリカ 額入りジクレーアート
≪Captains All!≫
額縁・マットの色をプルダウンにてお選びください
送料無料。お届けはご注文後約7日です。価格にはアートプリントとマット・額縁、全て含まれます
作者名 :anonymous
製作年 :1934
額縁・マット : 木製カマボコ型=12mm、t=1.5mmx2枚ダブルマット、前面1.8mm厚UVカットアクリル(クラレ・コモグラス)
額縁とマット色をお選びいただけます
・黒艶消し額縁 X ブラウン/ライトベージュ・ダブルマット
・白ツヤ額縁 X ネイビー/ライトブルー・ダブルマット
額縁サイズ : 525mm x 410mm
作品サイズ : 407mm x 272mm (内側マット抜きサイズ、表側オーバーマット抜きは417 x 282mm)
当商品は伊勢和紙に顔料インクを用いたアートプリントを国産材料で額装したものです。奥行きを持たせる濃淡色二重のダブルマット仕様です。伊勢和紙は伊勢神宮の奉書紙として漉かれ全国の神宮大麻に使用されています。インクジェットに意欲的で、伊勢和紙アート紙は新たな表現材料として世界中のアーティストに使用されています。マーメード紙程度の表面テクスチャーによる風合いが楽しめ、無酸性紙に顔料の組合せはリトグラフやシルクスクリーンに比べ格段の保存性を持ち、数十年単位の鑑賞に耐えます。画像データに傷や劣化の補修、彩度などの可塑修正を施し、テストプリントを繰り返し微調整して仕上げています
● 1934年 キュナードライン見開き雑誌広告
スコットランドで534番船、後のクイーンメリーが起工されたのは1930年12月、前年10月の株式大暴落に始まる恐慌が徐々に欧州に波及する最中のことでした。1931年12月、資金繰りに窮したキュナードの支払いに滞りが生じると534番船の建造は中断、以後2年4ヶ月に渡り船殻のみ完成のままで放置されます。キュナード会長のベイツ卿は英政府に救済措置を嘆願するものの緊縮財政を敷く政府が首を縦に振ることはなく、一方でホワイトスターラインが米モルガンの海運トラスト・IMMから離脱の財務処理に失敗して事業継続が困難になった事態が重なり、政府からはキュナードとホワイトスターの合併及び新会社への政府融資案が浮上、1933年12月の合意に至ります。1934年5月、両社が合併してキュナードホワイトスターが誕生、534番船の建造が再開され9月に進水、クイーンメリーと命名され、以後艤装に入ります。本作、1934年の雑誌広告は、事実上「キュナードライン」名義で最後となった広告で、本作含め合併決定及び合併後の1934年前半に、キュナードホワイトスターへの変更が間に合わずに従前のままで2種ほどの広告が打たれています。これら1934年の見開き広告は、第二次大戦勃発の1939年までにキュナードホワイトスターが毎年打ち続けることになる見開き広告の雛形になったもので、1933年の一風変わった雑誌本記事風の広告を発展させたものです。それ以前の広告と全く違うのは、イラストや写真で大胆に全面の紙面構成をして、大きなキャッチコピーで見せる(つまり、余り読ませない!)ようになった点で、その特徴はキュナードホワイトスターに社名が変わってから顕著になります。本作は大胆なグラフィックが1935年以降の広告の雰囲気を感じさせますが、内容的には「読ませる」部分が残っており、会社もその広告も共に過渡期であることが良くわかります。
右側のセーリングスケジュールは6月以降のものが入っているので、時期としてはまさに合併成った5月頃の広告と考えられます。スケジュールは雑誌の発行日に合わせて若干の入れ替えが発生するので、恐らく3月頃から複数回、掲載誌も変えながら打たれたものと思われます。左ページはキュナードの18名の船長や航海士の紹介、写真と写真の間のコピーでは、全員が英海軍予備役であることと、その予備役扱いの詳細が説明されています。右側は、アメリカのヨットデザイナー、ウィリアム・スターリング・バージスとバージスのメッセージが大きく取り上げられています。米国向け広告の実に憎いところで、バージスは1930年のアメリカスカップで防衛艇のエンタープライスを設計、紅茶王トーマス・リプトンの最後の挑戦となったシャムロック?を下しています。そして、この年1934年はアメリカズカップが開催された年で、英国のエンデバー(オーナーはリプトンの意思を継いだソプウィス卿)を迎え撃つ防衛艇のレインボーを設計しました。1930年代は、Jクラスという水線長80フィート(艇体は40m超)にも及ぶ、ルール上史上最大だったレース艇で争われました。戦前に建造されたJクラス艇はわずか10艇、世界最古のスポーツカップであるアメリカズカップで最も輝きを放った時代だったといわれます。英国のキュナードが、前評判の高かった(事実、英艇エンデバーは、9月の本レースでは史上初めてアメリカスカップを奪取する寸前まで防衛側を追い詰めました。詳細は他項に譲りますが、レースに勝ってルールで負けた、とまで評されることになります)エンデバー側ではなく、レインボー側のデザイナーをピックアップしていることに若干の違和感を感じずにはいられませんが、それも一興です。ちなみに、バージスは1937年の防衛艇、レンジャーも設計、新しい素材を多用して徹底的なタンクテストから生み出されるバージスのヨットは、最早レースのためのセ-リングマシーンとも評されます。(F1マシーンでドライブを楽しめるとは誰も考えません。それと同じことです) バージスのメッセージは、至って当たり前のことで、要約すれば、船長は大きい船であれヨットであれ、常に海象に気を配り、最良の航海を実現している、といった程度の内容です。内容よりは、当代話題のバージスを取り上げたところに意義があったものと理解されます
・ 雑感
戦前、北大西洋でのアメリカの客船は、英仏独各国のフラッグキャリヤーに見劣りするものでした。帝国主義の時代にあって、自国民を新天地へ送り込むことは国策上の戦略であった面もあり、その後の通信や人的行き来、貿易も含め航路の整備維持は国家戦略の一端を担うものでした。対する、新天地アメリカには、そもそもそういった必然が発生するには時を待たねばならず、結果として競争の舞台に登るまでには至っていなかった、従って巨大な高速客船のノウハウも未だ持ち得なかったのだと考えられます。一方で面白いのは、同じ船でも、ヨットの設計にかけてはアメリカは一歩も二歩も欧州の先をいっていたという事実、そのアメリカのヨットデザインのルーツはパイロット・スク-ナーだったと言われます。目的地に到着した帆船には水先人が乗船しますが、ボストンやニューヨークでは、この仕事は早い者勝ち、沖の帆船を目指して我先に水先人を運ぶために速いヨットが造られました。縦帆で沿岸の微風に特化しており、浅海面のためのセンタボードなる昇降可能な可動式キールを備えていました。欧州のヨットが大航海時代からの「帆船」であったのに対し、アメリカのヨットは「ヨット」そのものだったということです。アメリカのヨットに負けた英国艇のつぶやきが伝わっています。「我々の船は船首と船尾が逆だった」・・・18世紀の英国のヨットは、まだタラ頭サバ尾でした (T.O.)
【Maritime Gallery Ocean-Note】
● ジクレーアートプリント・客船 LL/Poster Ocean Liner INDEX
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納入事例
客船ポスター四方海話
船と港のエッセイ 1
船と港のエッセイ 2
【Maritime Gallery Ocean-Note】