客船ブレーメン
ポスター 四方海話 巻拾壱
いつの頃からか、毎週水曜日の真夜中には、ニューヨーク・マンハッタンの埠頭から煌々と灯を点けた北ドイツロイドラインの客船が出港するのは風物詩となっていた。ブレーマーハーフェン・シェルブール・ニューヨーク間急行線の出港である。しかし、1930年8月28日水曜日の深夜(正確には9月1日の00:05)、その夜の出港予定は見合わせになった。ニューヨーク港湾当局がその客船の出港を差し止めたのである。夜が明けると、危険物積載の嫌疑で検査が行われた。危険物は発見されなかったものの出港許可は下りず、9月2日になると客船は救命ボートの降下訓練を要求された。すでに、欧州では9月1日にドイツ軍のポーランド侵攻が始まっており、9月3日には英仏両国が対独宣戦布告、第二次世界大戦の火ぶたが切って落とされる間際だった。実は、英国が開戦と同時にこの高速大型客船を拿捕する算段をしており、米国に依頼して8月28日深夜の出港を妨害させたのである。港湾当局による出港差し止めの期限は48時間、この客船は9月3日00:05には出港が可能となる。
この客船は北ドイツロイドラインの客船ブレーメンであった。刻々と伝わる欧州の状況を見れば、意味のない訓練要求の時点でブレーメンに対する米英両国の意図がどこにあるかは明白だった。そうとなれば・・・最後は出港を強行するしかない。幸いギリギリで英仏の宣戦布告はまだで、48時間を待つタイミングはギリギリであった。やがて、日付は変わって9月3日午前0時過ぎ、ブレーメンはタグボートに引かれて埠頭を離れ無事に出港した。しかし、一連の妨害によって一人の乗客も乗せることは出来ず、舷側に乗員を整列させドイツ国歌を斉唱して抗議の意を表した。ニューヨーク港の自然の水深は20フィート弱である。これを長年かけて浚渫してアッパー湾(自由の女神一帯)、ローワー湾(ベラザノ・ナローズ・ブリッジより南)の主要部分を25フィートまで掘り下げてある。しかし、船が大型化して入港が困難になってきたため、サンディフック岬とブリーズィー岬との間をさらに浚渫して水深40フィート、幅は約2000フィートの水路が掘ってある。これがアンブローズ水路で出口北側には灯台船が係留され、入出港の際は灯台船の南側を通過することとされていた。すでにブレーメンの入港後、英国の巡洋艦エグゼターはブレーメン拿捕の任務を帯びてアンブローズ水路出口から3マイルのところに待機していた。ブレーメンはニューヨークで足止めされながらこの待ち伏せの情報は得ていた。ハドソン川を下り、アッパーニューヨーク湾で自由の女神を右舷に見てアンブローズ水路に入航する。そしてアンブローズ水路を出たところで、灯火を全て消灯、本来通るべき灯台船南側直進の進路をとらず、大きく左舷側(ブルックリン陸地側)へ変針、一帯には水深36~37フィートのところも点在する。ブレーメンの喫水は35フィート弱、本来ならば10%程の余裕をみて39フィートほどの水深が必要なところ、36~37フィートの浅瀬が点在する海面を一気に無灯火全速で駆け抜ける。エグゼターが気づいた時にはすでにブレーメンは遁走に移っていた。その後、ブレーメンはソ連のムルマンスク港に一旦逃げ込むことに成功する。これが有名な客船ブレーメンの脱出行である。
ブレーメンの建造が北ドイツロイドラインから発表されたのは1926年12月のことである。ヴィルヘルム1世が統一したドイツ帝国の第三代皇帝ヴィルヘルム2世は1898年、「ドイツの将来は海上にあり」と演説、米国に次ぐ世界第二位の経済大国となっていたドイツは、海外領土拡大を目論み商船を含めた建艦競争に突入する。この皇帝の意向を汲んで、北大西洋商船のトップに立つ英国勢に挑んだのが北ドイツロイドラインだった。北ドイツロイドラインが1897年から1907年にかけて大西洋に就航させた新船は次々と大西洋横断速度記録を次々と更新(この称号をブルーリボンと呼ぶ)、スマートで精悍な4本ファンネルの客船は人気を博し、大西洋の旅客実績で英独は完全に逆転した。七つの海の覇者である英国も黙ってはいない。国防上の危機感と大英帝国のプライドから、英国政府はキュナードラインに政府融資と運航補助金を注ぎ込み、モーレタニアとルシタニアを建造、英国は10年振りにブルーリボンを取り戻した。英独の競争が大西洋航路の覇権争いで済めば良かったが、ヴィルヘルム2世が志向した拡大路線は独英対立を招き、これに中世以来続く民族問題や王制国家の矛盾が複雑に絡み合い第一次世界大戦へと至ってしまう。大戦は1918年に終結するものの、欧州には戦勝国、敗戦国を問わず深刻なダメージが残った。ルシタニアは1914年にUボートの雷撃で沈み米国参戦のきっかけを作ったが、モーレタニアは大戦を生き延び戦前と変わらずブルーリボン客船として大西洋に復帰した。意外にも、大戦の戦禍からいち早く立ち直ったのは敗戦国のドイツである。ヴェルサイユ体制下での戦時賠償が膨大であったため米国の仲介で賠償緩和と積極的な米資本の投下が行われたためである。ドイツの客船は、戦時賠償でほぼ全船が連合国に渡った。ところが北ドイツロイドの客船コルンブスのみは船台にあって進水前だったため賠償物件から外された。240m、32000トンのコルンブスは、モーレタニアには及ばないものの、本体ならば4本ファンネルに代わる客船として1915年頃には就航する筈であり、22ノットの航海速力はかなりの実力と言ってよいものであった。物資の不足から就航は1924年になるが、ただ一隻残った客船を北ドイツロイドは念入りに仕上げた。コルンブスの船内設計は、減少に転じた移民ではなく米国人観光客をターゲットとしたもので評判も良く、北ドイツロイドの北大西洋旅客実績は首位キュナードの9割近くまで肉薄した。当時、コルンブスと組んで大西洋航路に配船された客船は、連合国へ賠償で引き渡された客船を買い戻した老朽船ばかりだった。そこで、コルンブスの成功に気を強くした北ドイツロイドは、コルンブスに相応しい僚船を建造することを決心する。こうして計画されたのが北ドイツロイドラインの客船、ブレーメンとオイローパである。
ブレーメンとオイローパは、コルンブスの僚船として30000トン級の客船として1926年起工された。ところが、起工後しばらくすると急遽計画は50000トン級にスケールアップされることになる。この計画変更の原因について明確な史料は残されていないが、北大西洋ニューヨーク急行線がモーレタニア、アキタニア、ベランガリアのベテラン3隻となっていたキュナードラインが、新たに起工されたブレーメンとオイローパに対抗するためにクイーンメリーとクイーンエリザベスの新造計画を開始したため、つまりキュナードの対抗策にさらに対抗してスケールアップを図ったものだと言われている。いずれにせよ、北ドイツロイドとしては20年以上前に奪われたブルーリボンをモーレタニアから奪還することが絶対の目標となっていたことは想像に難くない。一般に、概ね50000トンを越え、航海速度が28ノットを越える定期客船をスーパーライナーと呼ぶ。航海速度の約28ノットは、欧州・ニューヨーク間を航海して一週間で次の出港を行えるという意味合いを持つ。つまり、この性能の客船を2隻持っていれば、欧州側・ニューヨーク側で毎週出港できるということである。船の速度には水の抵抗による大きな壁があり、その速度は28ノット付近にある。航海速度を28ノットあたりまで上げるには最高で30ノットは越えなければならない。ところが28ノット近辺の壁を越えると、燃料消費は乗数的に加算されて著しく採算が悪化する。採算性を確保するには船を大きくして乗客を増やす。大雑把に2000名程度の定員を越えれば採算性は確保できるが、そうすると船体は50000トン以上という計算になる。ブレーメン、オイローパ、レックス、コンテ・ディ・サヴォア、ノルマンディー、クイーンメリー、クイーンエリザベス、ユナイテッドステーツ、フランス、クイーンエリザベス2、歴史上、スーパーライナーはわずか10隻しか建造されていない。(現在就航中のクイーンメリー2もこの列に加えることはできる) このスーパーライナー時代の扉を開いたのはブレーメンであった。ドイツの期待に違わず、ブレーメンはニューヨークへの処女航海西航で27.83ノット、続く東航で27.92ノットを記録、22年振りに英国からブルーリボンを取り返した。現代の目から見ると、昔の客船はこのような形だった・・・という外観はブレーメンから始まったものかもしれない。威風堂々とした直立したブリッジや鉄の箱を重ねたようなハウスは無く、細長い船体にクルーザースターン、曲線で構成されたブリッジに巨大で低いファンネルは、当時の人々にとっては近未来的に映ったことと思われる。50000トンの巨船でありながらそれを感じさせない低く見える全高はネイバルアークテクトではなく建築やプロダクトデザインの手法から導き出されたものとも言われる。高速航行のための技術も新しいもので、商船としては世界で初めて球状艦首が採用され、リベット止めの船体は通常とは逆の後重ねが採用された。(溶接船体の今日は無関係だが、リベット止めの当時は前側の鋼板を後の鋼板の上に重ねていた。これを逆にすると抵抗が増すように感じるが、造波抵抗は減少して若干の速度アップが図れる)
ブレーメンのインテリアはバウハウスが担当した。第一次大戦終戦によりヴィルヘルム2世が退位、ワイマール共和国の成立が宣言され、この1919年にワイマール国立バウハウスが設立された。バウハウスは国立学校として設立されたが、1925年デッサウ市立に移行、1932年には財政難から私立学校となり1933年に閉校した。バウハウスの設立主旨と成果(あるいは評価)は、慢性的な財政難と不安定な社会情勢の中で必ずしも一致したとは言えない。「すべての造形活動は建築に帰結する」というバウハスス宣言を高らかに謳ったものの、成果と後世へ与えた大きな影響は、造形活動が統合された建築というよりむしろ基礎教育と学生が実践した習作へ至る過程(デザインというモノ作りのプロセス)、これによりアウトプットされたグラフィックや家具などの作品だった。ただし、当時の欧州の芸術・・・ロシア構成主義やキュビズム、デ・ステイル、アールデコ、ドイツ工作連盟といったある種のイデオロギーを、デザインという判り易いプロセスに導いていった結果は後世に計り知れない影響を与えた。つまり、バウハウスは、アーティストや職人達に道を示したのである。ドイツが工業国であった故、工業生産を前提に装飾を排除した機能的でシンプル、造り易く判り易い造形がバウハウスのデザイン=モダンデザインの特徴だった。ブレーメンのインテリアは、過剰で重厚な装飾を避けた洗練されたものとなった。古いモノクロ写真では判りにくいが、清潔感のある明るいものだったと感じられる。様々な憶測がなされているが、バウハウスの作業は内装だけでなく外観にも及んでいたのではないかと言われている。というのは、特に極端に低いファンネルが造り出すモダンでスピード感のある外観は従前の船の設計から見ると斬新で唐突だったからである。ファンネルは・・・失敗に終わっている。低すぎてデッキに煤煙がデッキを覆ってしまい、後に高さを伸ばしている。
ノルマンディーであればカッサンドルの、クイーンメリーといえばジャービスのというように、名を馳せた客船にはそれぞれ後世になって看板になるポスターがある。ブレーメンといえば、後世から見ればこの希少なポスターが看板である。描かれている3隻はニューヨーク急行線の3隻で、左からブレーメン、コルンブス、オイローパ、32000トンのコルンブスだけが幾分小さめに描かれている。この客船ブレーメンのポスター、描いたのはルイ・ガイッグ(Lois Gaigg、オーストリア、1903-1944)という人物だが来歴等詳しいことは不明である。船をデフォルメする際に人の目線から見上げ、大きさを表現するのはアールデコ期の常套手段であったが、Aデッキに目線を置いて船体部分を大きく描く表現は斬新である。こういった俯瞰は他に見られないこのポスター独特のものだが、一見してわかるように見事なスピード感の演出である。客船のポスターは昔も今も“止まっている”堂々とした容態を表現するものであり、このポスターはさても珍しい表現方法を用いている。もうひとつ注目すべきは、本ページ最上部右の画像で見られる、下部の特徴のあるBREMENの文字である。1925年のパリ万博を頂点にアールデコの花盛りだったこの時期、デザイナーはこぞって腕を競い、これでもかこれでもかと様々な表現を試みるが、その目的は商業的な成果を得るところに集約されており、その意味ではあらゆるデザインの中で不特定多数の大衆にいかにして情報を伝達するかという“機能”が明確だった分野である。そのようにあの手この手で情報の伝達を試みる一方で、意外にもタイポグラフィーにはそれほどの新たな試みや凝った表現は見られない。ところが、このBREMENの文字は何とも印象的である。個人的な感覚ながら、最初にこの絵柄の何が目についたかといえば、BREMENの文字である。バウハウスの最終目的は建築の教育だったかもしれないが、基礎教育の部分で(まさにこの基礎教育が、今日のデザイン教育の元となっているが)タイポグラフィにはかなり重点が置かれた。コミュニケーションの最も重要な手段であり、ランドスケープからインテリアまで、サインやグラフィックにおけるタイポグラフィの重要性にも焦点を当てていたのである。1920年代末の作品として、このBREMENの文字を見たならば、ちょっとデザインを齧ったことがある方であれば誰もがバウハウスの仕業だと思うことだろう・・・調べを進めると、長年謎だったこの図柄の謎が解けてきた。残念ながらこの特徴のあるタイポグラフィが使用されてる本ページ最上部右の図柄はポスターではなく、1929年に制作された客船ブレーメンのブローシャーの表紙の絵であることがわかった。(何故残念かといえば、フルサイズのポスターでないと絶対的な画像サイズが不足してレプリカの制作が難しいからである)ただ、ブレーメンのブローシャーに3隻の揃い踏みは不自然、恐らく何らかの印刷物のために描かれた図柄が、これもまた恐らく、大変に出来が良く評判が良かったために1929年のブローシャーに使用され、さらに1932年の北米向けポスターに使用されたということだと推察される。ルイ・ガイッグによる、誰も思いつかない船のアングルと特徴的なタイポグラフィ、そして客船ブレーメンのデザインは、内装はもとより恐らくは外観のデザインにもバウハウスが深く関わった可能性がある・・・これらの事実を紡ぐと、ルイ・ガイッグがバウハウスと深い関わりを持っており、このポスターもバウハウスの遺作と言えるような出自の可能性は低くはないように思える。いつか、詳しく判るような史料が発見されて、バウハウス作品の一列に加われば良いものだと密かに望んで止まない。
ニューヨークから無事に母国に帰ったブレーメンは、アシカ作戦(英国上陸作戦)の揚陸母艦として改装されブレーマーハーフェンで待機した。しかし、上陸作戦の前提となる空軍の英国本土航空決戦は失敗、制空権を確保できずに上陸作戦は中止となりブレーメンは係留されたまま兵員の宿舎になった。1941年3月、係留中のブレーメンは放火により出火、修復不可能となり流用できる金属は取り外され船殻だけにされて放置、ドイツ降伏後爆沈処分された。ヴェザー川の河口には現在でも破片が残っているといわれる (了)