23. 浅間丸 内藤初穂さん「狂気の海」
日本郵船の二引きのファンネルが窓の向こうを行かない日は無い。大正期の有名な美人画ポスターをきっかけに、戦前の郵船のデザインをあれこれ掘り下げているうちに内藤初穂さんの「狂気の海 -太平洋の女王 浅間丸の生涯-」という古書を見つけて購入した。内藤初穂さんは大正10年生まれ、御尊父は「星の王子様」の翻訳で知られる内藤濯さん、東大の造船を出て海軍の技術畑に進み、戦後はノンフィクション作家として活躍したが昨年10月に天寿を全うされた。古書で表紙見返しには内藤初穂の署名と面白い為書きがあった。ご覧の通りの為書宛名は日本郵船オランダ現地法人の代表を務められた方とお見受けした。献本されたのだろうか。
イランによるホルムズ海峡封鎖が危ぶまれているが、船がなければすぐに干上がってしまうのが日本である。その逆も真なりで、戦さで幾らか勝ったとして・・・造船の能力を考え、補給のことはよくよく考えるべきで、「幾らか勝っていた」時期でさえすでに軍艦の護衛なしの商船補給船団が潜水艦に攻撃されていたわけだから、一体誰がどのようにそこのところを練っていたのやら。本書に限らず、戦時の日本商船の悲劇には憤懣やるかたない思いを抱かざるを得ない。観音崎には、天皇陛下が皇太子時代から度々献花にお出ましになる戦没船員の碑がある。
戦日に逝きし船人を 悼む碑の彼方に見ゆる 海平らけし (天皇陛下御製)
1929年から1930年、日本郵船は太平洋航路に一挙に六隻の新造船を就航させる。サンフランシスコ線には浅間丸、龍田丸、秩父丸、シアトル線には氷川丸、日枝丸、平安丸である。このうち、奇跡的に戦禍をかいくぐったのが、御存知、横浜の氷川丸。同じ太平洋航路とてサンフランシスコ航路とシアトル航路の船は別物だったらしい。模型や写真でしか見ることができないのでピンと来ないが、太平洋の女王と呼ばれた浅間丸は美しかったそうである。シアトル航路の氷川丸は大圏航路で北緯53度あたりまで北上するのでブリッジを高くして頑丈に作らねばならなかったらしい。戦後、実は日本郵船の社員の間では「一番恰好悪い船が残った」と囁かれたのだとか・・・僕はそうは思わないけれど・・・。太平洋の女王・浅間丸は余程美しいものだったようである。「狂気の海 -太平洋の女王 浅間丸の生涯-」 著者の内藤初穂さんも昨年亡くなられたとのことだから、古書では手に入るので、ご興味の向きの御仁は一読をお薦めする (2012,1,21初稿、2015年加筆)