27. 横浜散歩汽車道 臨港線・山下臨港線
今でも、神奈川以北、磯子以南はそうだが、日本は海際の土地を工場や企業が占有していて、横浜も山下公園あたり以外は港を望む場所が少なかったように思う。現在のようにまるごと海辺のパブリックスペースがドーンと広がるのを見ると随分大掛かりな事業で、観光立地都市再開発の優等な事例になると拍手を贈りたい。
子供の頃から不思議に見えた光景は、かつてあった山下公園の高架だった。子供の頃、父に問うてみれば、父も山形庄内から上京して仕事を始めたのは昭和30年過ぎだったろうし、そんなに詳しくはなかったようで「汽車でも通っていたのかな?」といった程度の答えだったように記憶してて、「謎の高架」への僕の疑問は消えずにいた。
昨日は、少しお散歩の範囲を広げて、桜木町から汽車道で郵船博物館、大桟橋に寄ってから山下公園、元町、石川町から帰るコース。電車を降りてから乗るまでブラブラで休み休みではあるものの六時間のお散歩は結構ハードである。汽車道を歩きながら、はなっから貨物線の名残と思って疑いもしなかったし、それは正解は正解なのだけれど、前回郵船博物館で見た1961年の氷川丸最終航海のビデオを昨日は再度ゆっくり鑑賞してたら、氷川丸出港の場面に汽車が出てきて、汽車から乗船客が降りてきて埠頭に歩いている。この辺が知識の乏しさ、僕はてっきり氷川丸が大桟橋から出入港してるんだと思っていたから、大桟橋まで汽車道が続いていて汽車のホームもあったのかと感心した。ところが今の高架の名残を見るとどうしても大桟橋に軌道が引き込まれていたようには思えない。モヤモヤしたまま郵船博物館で一杯サービスされるドリンクのコインを使って、カフェテリアでバナナオーレを頂いていると、壁に飾ってある説明パネルの一枚に赤煉瓦倉庫の横に残る横浜港(よこはまみなと)駅のホームの説明が・・・・
結局、昨日歩いたことと、帰宅後調べたことを簡単にまとめると、横浜開港後、イギリス波止場=象の鼻、フランス波止場=山下公園を造ったものの大きな船は係留できず沖留めしかできなかったので鉄桟橋=大桟橋を造った。これでも足りずに造ったのが新港=赤煉瓦パークで、荷役と乗船客の便宜を図るために臨港線を敷いた。これが現在の汽車道で当時、横浜駅(現在の桜木町駅)から汽車道に入り新港四号埠頭に横浜港駅が設けられたのだそうだ。横浜港駅は・・・氷川丸が航海を終えた1960年10月で役割を終えて使われなくなった。郵船の定期船が終わり駅も終わったわけだ。
ほぼ同時期、港の拡張は進んでおり山下埠頭が建設された。この貨物を運ぶために延伸されたのが山下臨港線で現在の赤煉瓦から大桟橋まで高架のプロムナードがその一部名残で、2000年頃には撤去されたかつての山下公園の「謎の高架」へとつながっていた。この山下公園の高架は結構な反対運動で建設が遅れたそうで、そうしている間に本牧埠頭や大黒埠頭に貨物も移って行き、自動車輸送に変わっていったことも重なり「謎の高架」は余り活躍することはなく廃線に至ったそうだ。
とまあ、読んでいただいてもピンと来ないことと思う。そう、大事な事は考古学や僕の仕事の信条ではなけれど現場主義である。あの辺を歩いてからお勉強しなきゃあピンとは来ないのである。一生勉強とは良くいうけれど、足を棒にして歩けば得ることも多いのである。郵船博物館のタダ券を入手したお陰で、船のことから発展して、すっかり・・・にわか郷土史家のようにになってしまった(2012,6,3)