32. 横浜新港9号岸壁
昨日は、当家に義姉を加え総勢5人、Aチーム(義姉+長女)とMチーム(僕+女房+次女)の二チームに分かれて横浜散歩。義姉は横浜に土地勘がある方ではないので、関内駅で簡単にブリーフィング。最初から預けることにしていたので、義姉は長女のために横浜のガイドブックまで買い込んで勉強してくれたらしい。最後は元町で落ち合うことにしていたので、一応オススメとして伊勢佐木町の有隣堂スタートで日本大通り、大桟橋、山下公園のルートを説明すると・・・「男の人って大変だったのねぇ・・・ホントに苦労がわかったヮ」 そうだろそうだろ、皆同じだろうが僕なんか寝ないでデートコースを考えたもんである。それでも今のようにネットがあるわけではないから、行ったところに不測の事態があったりするわけで、そのためにバックアップも考えて・・・涙ぐましい努力の割に・・・実りは少なかった。
人生は一度こっきりだから「何でもこの目で見てやろう」という気持ちは大切である。ネット時代になって「あ、それ知ってる」っていうのが益々頻繁だが、それだけでは寂しい。暫く前にニュースの見出しにハッとした。「知っている、が学ぶ心を妨げる 」というものである。何でも興味を持って、調べて、考えて、できることならこの目で見ることが肝要である。
「何でもこの目で見てやろう」が、思うような結果にならないこともある。いまから17~8年前の丁度今頃、僕は二度目の転職にあたって1週間程の休みをとれたので、思い立って数日掛かりで「浦賀道」の研究をやった。浦賀道は神話にも登場するような古道で、鎌倉から金沢、横須賀、走水、東京湾を渡り房総に至る古東海道の三浦側南端にあたる。現東海道が主街道になったのは江戸時代からで、東海道が藤沢から東上して戸塚へ向かうようになってからも浦賀湊が栄えたので、江戸方面からは東海道を保土ヶ谷で分岐して古東海道南端が浦賀道として使用された。僕が住む周辺では、浦賀道の一部は国道16号よりも良く使う現役の生活道路でもあり、古道を庚申塔やお地蔵さんを頼りに観音崎まで辿って歩いてやろうという計画である。実は・・・江戸時代以降の浦賀道は、馬堀海岸から矢の津坂という現横浜横須賀道路浦賀インターのある方の道が正解(坂本竜馬が浦賀に行ったのもこっちである)だったのだがこれを知らず、お地蔵さんをたどりつつ推測混じりで進んだら馬堀海岸駅前の通りを進んでしまった。これがまた都合良く、突き当たりの右手防衛大学に登る交差点の向こうには淨林寺というお寺、そしてこのお寺を迂回するように急な細い山坂道が付けられており、これを進めば走水のトンネル向こう側のお地蔵さん(これは以前から良く見ていた)に辿りつけるに違いないと思って進む進む進む。実は、郷土史家も浦賀道は散々研究しているが、走水に至る古道の方は今もって調査が進んでない・・・それこそ、その時は神話で走水から東京湾を渡ったという日本武尊にでもなった気分だ。すると突然、視界が開けた! 目の前には立派な鉄筋コンクリートの建物が並ぶ並ぶ!? 暫くすると警備員のような人に呼び止められる。「何をしてるんですかっ!。あなたはどちら様ですか?」と問われ、「実はお寺の横からお地蔵さんをたどったらここに出ました。怪しいものではありません。ここはどこですか?」と逆に尋ねる。 「ここは防衛大学です。門まで送りますから、出て行って下さい」
昨日の横浜散歩は、長女のAチームに負けてはならじと大サービス。次女をハッピーにするために全力を尽くし、普段なら考えもしないコスモワールドへ連れて行ってしまった。僕は、高いところが滅法苦手なので乗らなかったが、次女と女房は大観覧車にご満悦である。お土産に撮ってきてくれた写真は大観覧車から見降ろした横浜港。その後、汽車道伝いに大桟橋に行くが、途中遠くに横浜新港岸壁を望むと、先般知人からもらったメールを思い出した。何でも、それはカナコロ(神奈川新聞)の記事で、横浜市が「新港ふ頭の9号岸壁を客船埠頭とする整備の計画。今年は9号岸壁の耐震診断と設計の予算を計上、あらゆる客船の受け入れ体制を強化する」という内容だ。実は9号岸壁と言われても「フムフム」とはならなかったのだが、それは僕だけではなく殆どの人が同じではないかと思う。わからないので調べたら、赤煉瓦の向こう海上保安庁が使っている岸壁から海に向かってもうひとつ左手にあたる岸壁の左っ面が9号岸壁だとわかった。さて、その9号岸壁、赤煉瓦をやり過ごし、Aチームは今いずこと思いつつ大桟橋でおやつ休憩、山下公園の大道芸やらストリートライブを横目に、次女お気に入りの氷川丸の売店を経て元町へ。娘たちのお気に入りの元町YOSHIDAで無事Aチームと再会を果たし喜久屋さんでケーキをいただく。16時解散・・・ で、気になって帰ってきた後に、再度、新港埠頭のことを調べる。幾ら汽車道や赤煉瓦上屋、旧横浜港駅が再整備されたとて、はっきり言って途切れ途切れで往時が偲ばれることはないし、そう思うのは僕だけではないだろう。大体、氷川丸が新港から出港したのは知ってるし、乗客が横浜港駅まで鉄道で行ったのもわかっていて、氷川丸最後の出港・入港の写真もあるが、それが現在の新港のどの部分にあたるのかは、多分現在65歳から上くらいの方じゃないと判らないと思う。
カナコロで言うところの9号岸壁というのがややこしくて、じゃあ9号以外の岸壁はどこ? と気合い入れて調べると、8号は9号の反対側、その対面は5号4号で海上保安庁であること、みなとみらいの開発で埋め立てが進められたため突堤基部にあたる6号7号10号11岸壁は無くなってしまっていることがわかった。だから数字が飛び飛びで訳がわからなかったのだ。上の写真は現在の横浜新港と横浜新港の竣工当時(大正2年・1913年、現在の赤煉瓦・国営保税倉庫が出来た頃)の平面図、そして現在の写真に竣工図を重ねたもので、赤数字が岸壁(バース)のナンバーである。客船ターミナルがどの部分にどの大きさでできるかは承知しないが、恐らくは8号岸壁も含むこの突堤全体の耐震にしないと意味は成さないはずで、この8号9号岸壁の突堤全体の整備になる筈だ。
さて、調べたついでにざっと言えば、開国して横浜開港、象の鼻ができたものの、これは荷役専門で船自体は沖留めだったし、客船も確か山下側の桟橋からランチを使って乗り降りしていた筈である。この不便を解消するために出来たのが鉄桟橋(大桟橋)だったが、これもバースにすれば4隻分しかない。当時、神戸や大阪は港の整備が急だったそうで、このままでは横浜港の地盤沈下は避けられないとの危機感から横浜財界中心に築港の機運が高まり造られたのが現在の新港である。無くなったものも含めて、1~11まで11のバースが設けられ、このうち4号を日本郵船太平洋航路サンフランシスコ線、9号を同じく日本郵船欧州線が使用したのだそうだ。ちなみに日本郵船大平洋航路シアトル線は大桟橋のまま、そして外国客船も大桟橋発着だったそうである。戦後、たった一隻になったシアトル線氷川丸は、戦前に浅間丸などサンフランシスコ線客船が使用した現在の海上保安庁大桟橋対面側の新港4号岸壁の発着に変更され、氷川丸の運行停止1960年まで汽車道の終点・横浜港駅から乗船客が乗り降りしたわけだ。今後の客船埠頭を目指して整備されるのは9号岸壁、日本郵船欧州線の照国丸や靖国丸(1930年就航)がここから発着していた。なかなかロマンチックなお話で横須賀市民としては羨ましいところである。古事記や日本書紀の頃からの道があたっりはするんだがなあ・・・(2013,3,4初稿、2015年追記)