34. パナマの死角 Across the pacific 1942
1942年に米国で公開されたハンフリー・ボガード主演の「Across the pacifc」という映画を見た。ジョン・ヒューストン監督の傑作選シリーズのDVDというのが日本でもリリースされていて、これを買えば日本語字幕でスイスイなのだが、如何せん高価で手を出しにくい。そもそも、映画を見たかったわけでもなくて、この映画の撮影に使われている船を見たかったのだ。というのは、佐藤早苗氏著「輝きの航海」(1993年、時事通信社)という本にこの映画のことが書いてあったので興味を持ったのである。その内容は
以下引用 ごく最近、アメリカから日本郵船本社に実に興味深いビデオテープが送られて来た。戦前の映画をビデオテープにとったもので、日本人にも懐かしいハンフリー・ボガード主演のものである。それが日本郵船に送られてきたのは、その映画がNYK(日本郵船)の船が舞台になっているからである。 ~中略~ 私もちょっとだけビデオを見たが、NYKのマークや二引の煙突があったり、日本郵船の船なのに、日本人を演じている役者が中国人らしく、日本人が見るとちょっと妙なところが目立つ。戦前はまだ日本を理解していない国がほとんどで、なぜか日本と朝鮮ではなく、日本と中国が交錯しているらしい。このビデオは、いま準備されているNYKミュージアムに納められることになっている。 引用ここまで
物語は、アメリカ陸軍を除隊させられるリック(ハンフリー・ボガード)が、職を求めてハリファックスに行きカナダ陸軍の面接を受けるも不採用、以前駐留していたパナマを目ざし、ハリファックスからニューヨーク、パナマ、ホノルル経由、横浜行きの日本郵船ジェノア丸に乗るというもの。リックは、スパイ戦に巻き込まれ日本軍が計画していたパナマ運河爆破作戦を阻止するというものだ。アメリカでの劇場公開は1942年の9月だが、この映画の撮影が始まったのは1941年の12月に入ってからだったという。以前、どこかで浅間丸がこの映画の撮影に使われたといったことを読んだので、大いに期待したのだけれど船は浅間丸でも何でもなかった。浅間丸に限らず、日本郵船黄金時代の客船の映像というのは本当に少なくて、郵船博物館で見られるプライベートフィルムや氷川丸の退役記念のフィルムくらいしか見たことがないから、どこかで読んだ通りならお宝発見だったのだが・・・
映像をみて、浅間丸でないことはすぐに判る。では日本郵船の二引ファンネルマークのこの貨客船は一体何だろうと思って、日本郵船の客船古写真や写真集、資料、社史など片っ端から付き合わせてみたがそれらしい船がない。船名はシャレが効いていて「下野亜丸」となっている。ジェノア丸が何で下野亜丸かと思えば、下野亜丸は音読みで「げのあまる」、これをローマ字に置き換えると「GENOA MARU」、すなわちジェノア丸となるわけだ。この艦首部船名とファンッションプレート後端の位置関係、また船名と船首アンカーの位置関係、門型デリックポスト、ブリッジと中央ハウス部分形状、後部ハウス・・・これらを判断材料にしたのだが、少し似た船であれば、N型貨物船、A型貨物船、S型貨物船などがあるにはあったが、門型デリックポストはヨシとしても、アンカーの位置も違えば船尾ハウスも違うし、根本的に映画では蒸気レシプロなのに両船はデーゼル船だからありえない。そう思いつつ映画を見ると、サロンの入口に「娯楽室」と書いてあり、読めるには読めるがどうも日本の漢字ではないし、撮影のために後から書いたものに見える。またサロンには、何と昭和天皇の肖像画らしき大きな絵(大体A1サイズほど)が飾ってあるが、日本の船に天皇陛下の肖像画はありえない。当時は神聖なものだから御真影が祠の中にあることはあっても絵画のようには飾らない。その他にも、細かくは船内の案内は紙が貼ってあり「→甲板」みたいなことが書いてあるが・・・紙で貼らないだろう。ハリファックスを出てニューヨークに寄った際には、立派な「N.Y.K. LINE」のギャングウェイが乗船口に掛けられるけれど、内側を良く見れば真新しい材木で組んだ造り物である。ファンネルの形状もきちんとした楕円注や円柱ではなくおかしい・・・と挙げればキリがないのだが、何のことはない、ファンネルを二引きには塗ってるものの日本郵船の船ではない! という結論である。
さて、この映画の製作はハリウッドのMGM映画だが、MGMは1940年代に「ミニヴァー夫人」のようなプロパガンダ映画を多数製作していた。(ちなみにハンフリー・ボガートといえば「カサブランカ」だが、こちらはワーナーのプロパガンダ映画) この「Across the pacifc」という映画がプロパガンダ映画であるということと当時の日米情勢、加えて題名の違和感と脚本が途中で書き換えられたという裏話・・・これらのことから興味深いことが見えてくる。未だに論争の種となる真珠湾攻撃を米国が事前に知っていたか否か・・・真珠湾攻撃はやはり米国の想定内の出来事だったとしか思えないのだ。
1940年頃には日米開戦が不可避になりつつあり、1941年にはルーズベルト大統領が世論と議会を大戦参戦賛同に導き対独開戦に踏み切るため、石油の禁輸によって日本に仕掛けさせようとしていた。三国同盟の日本への宣戦布告は対独開戦と同義である。すでに多品目の対日禁輸措置で日本船が米国で貨物をとれる状況にはなく、在米日本資産凍結に至り、7月には北米定期航路が閉鎖、8月にはパナマ運河の閉鎖が宣言され、北米にあった日本船籍の船には日本への引き上げ命令が下り、以後は政府チャーターの引き揚げ船のみの運航となる。「Across the pacifc」は、反日的プロパガンダ映画であり、舞台に日本郵船の客船を選んで、なおかつチケットエージェントの描写や張りぼてのギャングウェイなど、かなり日本郵船=日本の船であることをリアルに描写しようとしており、当時の米国における日本郵船の知名度と敵国日本のフラッグキャリアとしての認知度が強いものだったことがわかる。しかし、この映画の撮影が開始された1941年12月の時点で、すでに日本郵船の船は一隻たりとも米国にはなかったし、すでに開戦前夜に撮影に使える日本の船などありようもない。ついでに言えば、日本人を演じているアクターはみな中国人で、「かしこまりました」とか「よろしく」とかの日本語は明らかに日本人の日本語ではない。船だけでなく、日本人のアクターも使える状況にはなかったということがわかる。
それにも増して興味深いのは、この映画の製作裏話で、実はこの映画の脚本で主人公リックが阻止する日本軍の作戦はもともとは真珠湾攻撃だったということである。パナマのコロンで終幕を迎えるこの映画の題名が「Across the pacifc」であるのは、日本軍のパナマ運河爆破を阻止して太平洋への航路を守るという意味で的外れとは言えぬまでも、映画の中では一度も太平洋は登場しないから不自然だ。本当は、パナマではなくハワイで物語のクライマックスを迎え、日本軍の真珠湾攻撃を阻止するという脚本だったという。ところが、ここが大事なところで、米国ではすでに真珠湾が攻撃される予感があったため、その場合には脚本をパナマに差し替え、題名はどちらにも使える「Across the pacifc」にしたのだそうだ。実際に、1940年9月には日本の外務省(と海軍)の暗号は解読されており12月までには複製の暗号機が8台配備され、日米交渉や海軍の作戦は米側に筒抜けだった。1941年に「Across the pacifc」の撮影が始まると、案の定、日本は真珠湾奇襲を敢行した。脚本は真珠湾からパナマへ書き換えられ、リックが1941年12月6日(真珠湾攻撃は米国時間1941年12月7日だったから、現実の真珠湾攻撃の一日前)に日本のパナマ運河爆破作戦を阻止するものとなった。この辺も手が込んでいて、パナマで迎える決着の日は、ご丁寧にもパナマの新聞の見出しが大写しになるシーンがあって、日付は1941年12月6日、見出しは「HIROHITO REPLY TO ROOSEVERT WILL INSURE PEACE...SAY NOMURA AND KURUSU」となっており、映画公開時には、いかにも真珠湾がだまし討ちだったように強調しつつ、実はその一日前にパナマ運河爆破を阻止したのだというロジックである。戦前といえども、昭和天皇がそのように考えていると米国大使が言うことはないのだが、結局、「平和を保障する」と言っておきながら真珠湾をやった卑怯な日本のパナマ運河爆破を阻止したリックは偉い!というわけである。さて、ここで良く考えなきゃならないことは、日本では未だに米国が真珠湾攻撃を事前に察知していたか否かとケンケンガクカクやってるわけだが、現実としては街場の映画会社が真珠湾攻撃の脚本を真珠湾攻撃が起こる前に書いていた訳で、日本海軍機動部隊のハワイ接近に誰かが気づいていたかどうかは不明だが、少なくとも真珠湾攻撃、もっと言えばパナマ運河攻撃を日本が計画していることが広く一般に認識されていたことが良く分かる。この興味深い事実をスタートにして真珠湾攻撃陰謀説を考えないと結論は感情的に過ぎるあらぬ方向にいってしまうだろう。ちなみにパナマ運河爆破は、駐米武官として山本五十六提督が米国にいた時から山本提督が頭の中に描かれていたといわれる。山本提督暗殺後は、山本提督の遺志・弔い合戦として海軍がパナマ運河爆破計画を立てていたそうだ。
冒頭の佐藤早苗氏の著書によれば、「Across the pacifc」は郵船博物館に納められたかもしれない。しかし、これが博物館の資料にもならなかったのは、郵船の船が無関係だったからであろう。もし、郵船OBの竹野弘之さんが存命であればお目に掛かった折にでも笑い話を伺えたかもしれない。しかし、話が変わるがハリファックスのチケットエージェントの映像は見ものであった。当時の郵船のポスター、「ゲオルギー・ヘミングのNYK around the world」や「戸田芳鉄の江戸城」がきちんと壁に貼られているではないか・・・これはわざわざ作ったりしないだろうから本物があったのだろう。僕にとってはこれこそ大変貴重な資料である(2013,4,10初稿、2015年加筆)